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2023年度時実利彦記念賞受賞者 坂野 仁 先生 受賞の言葉

マウス嗅覚系における情動行動の出力判断

福井大学学術研究院医学系部門 坂野 仁
 此の度は伝統ある時実利彦記念賞に選出して頂き誠に有難う御座居ます。選考して頂いた先生方に深く感謝致します。
 私は以前、多様な抗原の識別という観点から、免疫系に於いて抗体遺伝子の研究を行って居りました。その後、同じ様な多様性識別の問題が高等動物の中枢神経系にもないかと考え、マウスの嗅覚系に着目しました。揮発性の匂い分子は10万種類程度あると云われ、様々な匂い情報は複数の匂い分子の異なる量比と組み合わせによって形成されていますので、その種類はほぼ無限と言って良いと思います。
 嗅覚情報は嗅上皮にある嗅細胞によって検出された後、嗅球上に嗅覚受容体の種類に対応して約一千個存在する糸球体の活性化パターンとして二次元展開され、その画像の違いを脳が識別して微妙な匂いの違いを認識しているのです。この「匂い情報のトポグラフィックな変換」が、せいぜい一千種類程度の受容体遺伝子を用いて無限とも言われる匂いの種類を識別するからくりなのですが、私達のグループはこの情報変換を支える二つの基本ルールの分子基盤を明らかにしました。一つは「一神経・一受容体ルール」で、個々の嗅細胞における単一受容体の発現を、「免疫系の対立形質排除をヒントに負のフィードバックの考え方を導入」する事で見事に解決しました。
 もう一つのルールは「一糸球体・一受容体ルール」で、私達は「同じ種類の受容体を発現する嗅細胞の軸索が特定の一つの糸球体に収斂するメカニズム」を明らかにしました。当初一般には、嗅覚受容体そのものが軸索の投射及び糸球体の選別に関わると考えられていましたが、私達は、「嗅覚受容体の種類に固有なレベル生じる基質を要しない分子ゆらぎによる基礎活性」がcAMPの量に変換され、それが軸索投射分子の転写量と投射位置を決めている事を見出しました。私達はまた、糸球体の選別にも嗅覚受容体が関わり、これには「受容体の種類特異的に生み出される神経活性」によって軸索選別分子の発現が制御されている事を見出しました。これらの研究により長年懸案であった、「嗅覚受容体の種類に指令されて生じる神経地図形成の分子メカニズム」の全貌が明らかになったのです。
 私達は次に、二次投射を介した情動・行動の出力判断の問題に取り組みました。嗅球の背側にジフテリア毒素を発現させて嗅覚神経地図の背側領野の糸球体を欠失させると、経験に基く忌避行動は正常に行えるものの、先天的な恐怖や忌避行動が見られなくなるのです。この発見は高等動物において、「先天的行動を作動させる本能回路が、記憶・学習回路とは独立に並行して機能している」ことを示す初めての報告として注目を集め、ネコを怖がらないマウスの写真と共に世界各国のメディアで取り上げられました。
 私達は更に、忌避と誘引の本能回路が、背腹軸に沿った嗅球への分別的な一次投射と、それに接続する扁桃体の価値付け領野への二次投射によって構築され、これら投射の制御にニューロピリン2 (Nrp2)という軸索誘導分子が共通して関与する事を見出しました。即ち発生過程で、「嗅細胞や僧帽細胞がNrp2を発現するか否かで、本能回路が誘引的となるか忌避的となるかが決まる」のです。私達はまた、嗅球背側の恐怖ドメインを光遺伝学的な手法を用いて刺激すると、それが単一糸球体からの入力であっても、すくみ反応が誘発される事を見出しました。これらの発見により、匂い情報が一次投射を介して誘引と忌避に分別され、二次投射によって扁桃体の正または負の価値付け領野に配信される事で、先天的な出力判断の下される事が明らかとなりました。
 私達は最近、本能回路が出生直後の感覚入力によって可塑的に修正される、「刷り込み現象の分子メカニズムを解明」しました。マウスでは、新生仔期に嗅いだ匂いに対し誘引的な刷り込みが行われ、その匂いが本来忌避すべき匂い、例えば4-メチルチアゾール (4MT)、であってもそれを好む様になり、その匂いの記憶によってストレスが緩和されます。この刷り込みマウスでは、4MTを嗅がせると嗅球背側から入力した情報が先天的な忌避回路を介して扁桃体の負の価値付け領野を刺激します。しかしながら同時に、4MTの記憶情報を受け取った学習回路は、扁桃体の正の価値付け領野を刺激して最終的には2つの価値判断の相互相殺によって、誘引的な出力判断を下すのです。
 刷り込み現象に関して私達は更に、新生仔の「臨界期に発現するセマフォリン7A (Sema7A)が糸球体内でのシナプス強化に必須」であり、「刷り込み記憶に誘引的な価値付けを行う原因分子がオキシトシンである」事を突きとめました。因みに臨界期に匂い入力を遮断、もしくはオキシトシンをブロックすると、他個体を避ける社会行動異常を示します。興味深い事に、オキシトシンを欠損したマウス新生仔にオキシトシンを腹腔内投与すると、成長後の社会性に改善が見られます。これらの研究成果は、ヒトの発達期の環境からの感覚入力が神経回路形成に極めて重要である事を示唆するのみならず、自閉症や愛着障害など発達障害の予防・軽減の為の医療技術開発に資するものと期待されます。
 以上ここに紹介した私達の嗅覚研究は、「情動・行動の意思決定のプロセスを分子レベルで解明する」という、神経科学の重要課題の一つに道筋をつけたという点で重要だと考えられます。今後はこれら嗅覚情報の価値付け判断の後に、様々な脳内調節因子を介して発動される情動や行動の出力メカニズム、特にやる気 (motivation) や注意喚起 (attention) 、に注目して研究を進めていきたいと考えています。
掲載論文
Mori K and Sakano H. Front Neural Circuits, 16, 861800 (2022).
Mori K and Sakano H. Annu Rev Physiol, 83, 231-256. (2021).
Inoue N, et al. eLife, 10, e65078 (2021).
Inoue N, et al. Nat Commun, 9, 1842 (2018).
Saito H, et al. Nat Commun, 8, 16011 (2017).
Inokuchi K, et al. Nat Commun, 8, 15977 (2017).
Nakashima A, et al. Cell, 154, 1314-1325 (2013).
Mori K and Sakano H. Annu Rev Neurosci, 34, 467-499 (2011).
Takeuchi H, et al. Cell, 141, 1056-1067 (2010).
Imai T, et al. Science, 325, 585-590 (2009).
Nishizumi H, et al. Proc Natl Acad Sci USA, 104, 20067-20072 (2007).
Kobayakawa K, et al. Nature, 450, 503-508 (2007).
Imai T, et al. Science, 314, 657-661 (2006).
Serizawa S, et al. Cell, 127, 1057-1069 (2006).
Serizawa S, et al. Science, 302, 2088-2094 (2003).
Serizawa S, et al. Nat Neurosci, 3, 687-693 (2000).
坂野 仁
福井大学学術研究院医学系部門
略歴
1976年 京都大学大学院理学研究科 生物物理学専攻 博士課程修了
1976年 カリフォルニア大学 サンディエゴ校 化学部 博士研究員
1977年 スイス バーゼル免疫学研究所 研究員
1982年 カリフォルニア大学 バークレー校 微生物・免疫学部 助教授
1987年 同 准教授
1992年 カリフォルニア大学バークレー校 分子細胞生物学部 教授
1995年 東京大学大学院 理学系研究科 生物化学専攻 教授
2012年 東京大学 名誉教授、理学系研究科 特任研究員
2013年 福井大学 学術研究院医学系部門 高次脳機能 特命教授
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