スイス連邦工科大学ローザンヌ校・脳精神研究施設
山下 貴之
綺麗な絵を見て僕達はなぜ綺麗だと感じるのか。美味しい食事や心地よい音楽や感動的な映画にはそれぞれ理由があって僕達はそう感じているはずだ。わけが あるならそれを科学的な見地から理解したい。いつ頃であったか、当時まだティーンネイジャーであっただろう私はそう強く思いました。しかし、大学へ入学 し、いくら神経科学を勉強しても、物理化学の法則から逃れられない我々が様々な精神活動を行える理由が、むしろわからなくなる一方でした。
そんな中、学部の卒業研究で、大脳スライス標本を用いたパッチクランプ法を経験させていただく機会がありました。神経細胞の電気活動を高時間分解能かつ 高精度に記録することができるこの手法に、私はすっかり魅了されました。「この方法でボトムアップ的にデータを積み上げていけば、いつかは自分の疑問に答 えが出るのかもしれない」と考えるようになりました。真っ暗なトンネルの中で一筋の光明を見た思いでした。大学院ではスライス・パッチクランプ技術を極め るんだという熱意が私の魂を支配していきました。そして、修士課程から、この手法の開発者の一人である高橋智幸教授が主宰する研究室に所属し、本格的に研 究をはじめました。哺乳類中枢神経系のシナプス伝達とその修飾に関する基本命題を出来る限りストレートフォワードに解くことが研究の主目的でした。
私が特に貢献しましたのは、膜容量測定系を用いた一連の研究です。細胞の膜容量は膜面積に正比例しますので、ホールセル記録によりシナプス前末端の膜容 量を測定すると、シナプス小胞のエキソサイトーシス(膜面積増加)とエンドサイトーシス(膜面積減少)を追跡することができます。私は、ラット脳幹スライ ス上のcalyx of Heldシナプス前末端からホールセル記録を行い、膜容量測定と記録電極からの薬剤あるいはペプチドの導入を組み合わせて、薬理学的に小胞エンドサイトー シスの分子機構を調べました。そして、①小胞エンドサイトーシスは、主として、秒オーダーの時定数を持ち、ダイナミンによるGTP加水分解を必要とする、 ②小胞エンドサイトーシスにはCa2+が必要で、発達とともにCaセンサー分子はCaチャンネルのより近傍で働くようになる、などといったことを明らかに してきました。薬剤によってエンドサイトーシスがほとんど止まってしまったり、あるいは実験動物の日齢をほんの5日ずらすだけでがらりと効果が変わったり するのを目の当たりにし、スクリーンの前で「はっ」と息を飲む瞬間の、何とも言えぬ精神の高揚がたまらなく好きでした。
博士課程や沖縄でのポスドク、サブリーダー期間を含め、およそ9年間、高橋教授にお世話になりました。研究経過は概ね順調でした。しかしながら、私は、 そもそもの動機であった10代の頃の素朴な好奇心から自分の研究内容が遠ざかっていることに、しだいに違和感を感じるようになりました。このままシナプス 伝達修飾メカニズムを深く追究していったとしても、自分が科学者となる原点となった疑問を解くことができるとは思えませんでした。私は、これまで培った パッチクランプ技術を軸としながら、研究フィールドをより複雑な神経回路へと拡張することを決意しました。そして、2010年9月よりスイスに渡り、 Carl Petersen博士の下、無麻酔下のマウスからのin vivoパッチクランプ記録を主な手法として、感覚情報処理に関する研究を開始しました。初めての海外生活、かつ、自分にとっては新しい研究分野というこ とで、戸惑うこともありますが、日々充実感と緊張感を持って研究を進めています。
このような転機に日本神経科学学会奨励賞を頂いたことは、大変光栄であり、今後とも精進していく気持ちを新たに致しました。恩師である高橋智幸教授をはじめ、これまでお世話になったすべての皆さまに、この場をお借りして心より感謝申し上げます。
筆者近影(33歳の誕生日@石垣島・川平)
受賞研究内容を議論する総説(Neuroscience Research掲載)
Yamashita, T., 2012. Ca2+-dependent regulation of synaptic vesicle endocytosis. Neurosci. Res. 73, 1-7.
【略歴】
2001年
東京大学農学部卒業
2007年
東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(Ph.D.取得)
2007年
沖縄科学技術研究基盤整備機構研究員
2009年
沖縄科学技術研究基盤整備機構グループリーダー
2010年
スイス連邦工科大学ローザンヌ校博士研究員