2022年度時実利彦記念賞受賞者 柳沢 正史 先生 受賞の言葉
筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)柳沢 正史
この度は、伝統ある時実利彦記念賞に選出していただき、これまでの受賞者の錚々たるお名前に接し、たいへん光栄であるとともに身の引き締まる思いです。選考委員の先生方と神経科学学会の皆様に、心から御礼申し上げます。
私共の具体的な研究内容については、受賞講演や原著論文にあたっていただくほうが良いと思いますので、ここでは私が近年思わされている些事を少しだけ紹介させていただきます。私はこの頃は「事実は小説より奇なり」を捩って自分で作った「真実は仮説より奇なり」という句を、座右の銘としています。この言葉は、 これまでの研究人生を通して私に否応なしに与えられた実感であると同時に、痛烈な自戒の句でもあります。つまり、仮説とは所詮、人間が小さな頭で考えたストーリーに過ぎず、生命の真実はそれよりも遙かに偉大で面白いという畏怖の念、そして、自分が立てた仮説を、決して目の前の実験データの「上」に置いてはならないという戒めです。むろん、自然科学の究極の目標は、より洗練された仮説を提示してゆくことそのものにあるわけですが、科学的仮説あるいは理論は、実験データの前には、常に暫定的(tentative)でなくてはなりません。
私の研究スタイルは、詳細な作業仮説を置かない探索研究を、常に軸としてきたように思います。近年でこそ、様々な分野でデータサイエンスあるいはデータ駆動型研究の名のもと、探索研究が大きく見直されて来ておりますが、前世紀には探索研究と言うと、ややもするとfishing expeditionなどと揶揄され、少なくとも米国ではグラント申請時に避けるべき表現のひとつと教わったものです。しかし、エンドセリンやオレキシンの発見は、まさに探索研究の産物でした。探索研究を遂行するには 「technical courage — 専門的度胸」つまり目的のためには現時点で使える手法論を全て駆使し、時には自分の研究領域を飛び越えることをも辞さない勇気、が必須です。このことは、 恩師であるテキサス大学のMike Brown・Joe Goldstein両先生から学びました。
エンドセリンの発見1)は「内皮由来の血管収縮因子」の探索でしたし、オレキシンの発見2)は機能的な仮説を全く置かないオーファン受容体リガンドの生化学的探索でした。どちらも、その時代に利用可能であった最先端の手法を駆使したつもりです。オレキシン欠乏マウスが覚醒障害ナルコレプシーに罹ることから、オレキシンの主要な機能が睡眠覚醒の制御であることを突き止めた研究3)も、一切の具体的仮説を廃した虚心坦懐な行動観察、いわばフェノタイプ探索でした。思えば、エンドセリン系とオレキシン系が、それぞれ日々臨床の現場で使われる新規医薬の標的となり得たのは、基礎研究者として極めて幸いなことでした。
そして現在、私どもは睡眠覚醒制御の根本原理や「睡眠圧」の神経科学的実体といった難題を相手に、フォワード・ジェネティクス4)という別視点からの探索研究を、次世代オミックス5)、ゲノム編集など時代の手法を駆使しつつ進めています。探索研究には、いちど味をしめたら決してやめられない、依存性薬物のような魔力があるのかも知れません。
- Yanagisawa, M. et al. A novel potent vasoconstrictor peptide produced by vascular endothelial cells. Nature 332: 411-415, 1988.
- Sakurai, T. et al. Orexins and orexin receptors: A family of hypothalamic neuropeptides and G protein-coupled receptors that regulate feeding behavior. Cell 92: 573-585, 1998.
- Chemelli, R.M. et al. Narcolepsy in orexin knockout mice: Molecular genetics of sleep regulation. Cell 98: 437-451, 1999.
- Funato, H. et al. Forward genetic analysis of sleep in randomly mutagenized mice. Nature 539: 378-383, 2016.
- Wang, Z. et al. Quantitative phosphoproteomic analysis of the molecular substrates of sleep need. Nature 558: 435-439, 2018.
氏名:柳沢 正史 Masashi Yanagisawa, M.D., Ph.D.
所属:筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)
代表学会:日本睡眠学会(理事)・米国睡眠学会・日本神経科学学会
略歴:
1985年 |
筑波大学医学専門学群卒業 |
1988年 |
筑波大学大学院医学研究科 博士課程修了(医学博士) |
1989年 |
筑波大学基礎医学系薬理学 講師 |
1991年 |
京都大学医学部第一薬理学 講師 |
1991年 |
テキサス大学サウスウェスタン医学センター 准教授 兼 ハワードヒューズ医学研究所 准研究員 |
1996年 |
同大学 教授 兼 同研究所 研究員 (2014年3月まで) |
1998年 |
The Patrick E. Haggerty Distinguished Chair in Basic Biomedical Science, UTSW |
2001年 |
ERATO「柳沢オーファン受容体プロジェクト」総括責任者(2007年3月まで) |
2010年 |
内閣府 最先端研究開発支援プログラム(FIRST)中心研究者(2014年3月まで)
筑波大学 教授兼任 |
2012年 |
文部科学省 WPIプログラム 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長(現任) |
2014年 |
テキサス大学サウスウェスタン医学センター 客員教授(現任) |
主な受賞歴:
2003年 |
米国科学アカデミー正会員に選出 |
2016年 |
紫綬褒章 |
2017年 |
エルウィン・フォン・ベルツ賞(ベーリンガーインゲルハイム社) |
2018年 |
朝日賞(朝日新聞文化財団) |
2018年 |
慶應医学賞(慶應義塾医学振興基金) |
2019年 |
高峰記念第一三共賞(第一三共生命科学研究振興財団) |
2019年 |
文化功労者 |
2022年 |
時実利彦記念賞 |
研究概要:
柳沢は1988年、筑波大学の大学院生のときに内皮由来血管収縮因子エンドセリンを同定した。1998-1999年には、テキサス大学にて神経ペプチドオレキシンをオーファン受容体リガンドとして発見、オレキシン欠乏が覚醒障害ナルコレプシーを引き起こすことを見出した。これらの発見はいずれも、各々の受容体を標的とする臨床医薬(それぞれ肺高血圧症治療薬、不眠症治療薬)の上市へと結実している。近年、柳沢らはランダム突然変異マウスの大規模な順遺伝学解析により、睡眠量と睡眠圧が著しく増加するSleepy家系とレム睡眠が減少するDreamless家系を同定した。さらに、SIK3蛋白質キナーゼ分子の機能獲得型変異であるSleepyマウスと断眠マウスの脳リン酸化プロテオーム解析により、特定のシナプス蛋白質群のリン酸化の累積的亢進が睡眠圧(眠気)の本体である可能性を提唱している。