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2026年度時実利彦記念賞受賞者 吉原 良浩 先生 受賞の言葉

嗅覚系および前障の神経回路遺伝学的研究

理化学研究所 脳神経科学研究センター
吉原 良浩
 この度は伝統ある時実利彦記念賞を賜り、大変光栄に存じます。選考委員の皆様、これまでご指導くださった先生方、共同研究者の皆様、そして研究を一緒に進めてくれた多くの研究室メンバーに心より感謝申し上げます。
 私が嗅覚の世界に惹きつけられたのは1989年でした。京都大学大学院薬学研究科博士課程を修了して、大阪バイオサイエンス研究所神経科学部門のポスドクとなった私の実験ベンチの隣で、森憲作先生(当時・同部門副部長、現在・東京大学名誉教授)が免疫組織化学の実験をされていました。研究者としてヒヨッ子の私に対して、すでに嗅覚研究の第一人者となられていた森先生は、脳科学の基礎、特に神経解剖学と電気生理学の知識を懇切丁寧に教えてくださるともに、当時未発表であった「嗅球における匂い地図」の議論に加えてくださりました。BuckとAxelが嗅覚受容体遺伝子の発見についての論文を発表したのが1991年ですから、そのすでに2年前に私は「匂い情報が脳内でどのように表現されているのか?」という嗅覚研究における基本命題の解をこっそりと教えてもらえるという幸運に恵まれました。また1991年にGordon ShepherdやRichard Axelの研究室を訪問して、その後に世界の嗅覚研究を牽引する多くの若手研究者たちと交流を持てたのも、私が嗅覚研究の沼にハマってしまう端緒となった衝撃的な出来事でした。
 1990年代から2000年代における世界の嗅覚研究は分子を基盤にした研究戦略(分子→細胞→回路→行動)が中心でした。嗅覚受容体遺伝子の発見に始まり、匂いの受容に関わるシグナル伝達分子群、嗅上皮から嗅球へと至る一次嗅覚回路の形成を司る分子群の同定がなされました。私たちはマウスをモデル生物として用い、分子生物学・生化学・発生工学的手法を駆使することにより、嗅球顆粒細胞に発現して樹状突起フィロポディア形成を担う細胞接着分子テレンセファリン1-4、一次嗅覚系のゾーン構造を規定する細胞認識分子OCAM5、嗅球僧帽細胞の一部に発現する軸索ガイド分子BIG-16、嗅神経の標的糸球体への集束投射に必要な軸索ガイド分子BIG-27,8、嗅繊毛形成に必要な嗅細胞特異的ゴルジ体蛋白質Goofy9などの新規分子を発見するとともに、嗅覚回路構築に機能する軸索ガイド分子群・転写調節因子群を同定しました10-15。これらの知見は他の研究者による成果と相まって、一次嗅覚回路の形成と機能発現の分子メカニズムの全体像の解明に貢献できました。
 しかしながら2000年代後半になると私は分子を基盤とした嗅覚研究の限界を感じ、全く逆方向からのアプローチ、すなわち多様な嗅覚行動を基盤として、それらを司る回路→細胞→分子メカニズムの解明を目指す研究を開始しました。ゼブラフィッシュを用いたこの戦略は功を奏し、餌から発せられるアミノ酸やATPへの誘引行動16,17、排卵期のメスの魚から分泌されるプロスタグランジンF2によってオスが発現する求愛行動18、高濃度の二酸化炭素からの忌避行動19、傷ついた魚の皮膚から分泌されて仲間の魚に危険を知らせる警報反応20などを司る匂い分子・フェロモン分子・嗅覚受容体・糸球体・高次中枢の包括的解明へと至っています。また、嗅球から高次中枢へと至る二次嗅覚回路の単一ニューロン蛍光可視化法の開発に成功し、嗅球で表現される匂い地図が複数の高次中枢において異なった様式でデコードされる嗅覚情報処理機構を明らかにしました21,22。さらに嗅覚研究と並行して開発したWGAトランスジーンを用いた経シナプス性神経回路可視化技術23は、これまでに多くの研究者によって無脊椎動物から霊長類に至る多様なモデル生物において有効に利用されています。
 話は変わりますが、私たちヒトを含むすべての哺乳類の大脳皮質の深部に『前障: Claustrum』と呼ばれる薄いシート状の脳領域が存在します。前障はすべての大脳皮質領野と双方向性の神経連絡を有していることから、広汎な高次脳機能への関与が示唆され、多感覚情報の統合・注意の割り当て・同期的脳活動の制御など多くの仮説が提唱されてきました。特に2005年にFrancis Crickが彼の最後の総説で「前障は意識の中枢かもしれない」という大胆な仮説を述べましたが、前障の機能の実態は謎に包まれたままでした。2010年頃、私たちは嗅覚回路の様々な細胞タイプに蛍光蛋白質やDNA組換え酵素Creを発現する多くのトランスジェニックマウス系統を作製していましたが、偶然、1つの系統において前障ニューロン特異的にCreが発現していることを見つけました24。まさにSerendipityでした。このマウスにおいて前障特異的にチャネルロドプシンを発現させて光刺激により前障ニューロンを興奮させると、大脳皮質の抑制性ニューロンの同期的発火が起こり、その直後、約150ミリ秒にわたって広汎な皮質領域における神経活動の静止状態(Down state)が観察されました。このことから前障は大脳皮質全体の同期的神経活動の誘導、さらには意識レベルの調節に関与する可能性が示唆されました。今後はこのマウス系統を用いて神経回路遺伝学的技術を駆使することにより、Crickの大いなる仮説の検証を行い、前障の機能解明から意識の神経機構の理解を目指していきたいと考えています。
 
掲載論文
  1. Yoshihara et al. Neuron 12: 541-553 (1994)
  2. Mitsui et al. Journal of Neuroscience 25: 1122-1131 (2005)
  3. Matsuno et al. Journal of Neuroscience 26: 1776-1786 (2006)
  4. Furutani et al. Journal of Neuroscience 27: 8866-8876 (2007)
  5. Yoshihara et al. Journal of Neuroscience 17: 5830-5842 (1997)
  6. Yoshihara et al. Neuron 13: 415-426 (1994)
  7. Yoshihara et al. Journal of Neurobiology 28: 51-69 (1995)
  8. Kaneko-Goto et al. Neuron 57: 834-846 (2008)
  9. Kaneko-Goto et al. Journal of Neuroscience 33: 12987-12996 (2013)
  10. Yoshihara et al. Development 132: 751-762 (2005)
  11. Miyasaka et al. Development 132: 1283-1293 (2005)
  12. Sato et al. Journal of Neuroscience 25: 4889-4897 (2005)
  13. Miyasaka et al. Development 134: 2459-2468 (2007)
  14. Sato et al. Journal of Neuroscience 27: 1606-1615 (2007)
  15. Mizuguchi et al. Journal of Neuroscience 32: 8831-8844 (2012)
  16. Koide et al. Proceedings of National Academy of Sciences USA 106: 9884-9889 (2009)
  17. Wakisaka et al. Current Biology 27: 1437-1447 (2017)
  18. Yabuki et al. Nature Neuroscience 19: 897-904 (2016)
  19. Koide et al. Cell Reports 22: 1115-1123 (2018)
  20. Masuda et al. Current Biology 34: 1377-1389 (2024)
  21. Miyasaka et al. Journal of Neuroscience 29: 4756-4767 (2009)
  22. Miyasaka et al. Nature Communications 5: 3639 (2014)
  23. Yoshihara et al. Neuron 22: 33-41 (1999)
  24. Narikiyo et al. Nature Neuroscience 23: 741-753 (2020)
 
吉原 良浩
理化学研究所 脳神経科学研究センター
【略歴】
1984年 京都大学薬学部卒業
1989年 京都大学大学院薬学研究科博士過程修了(薬学博士)
1989年 大阪バイオサイエンス研究所 神経科学部門 特別研究員
1992年 大阪医科大学 医化学教室 講師
1996年 大阪医科大学 医化学教室 助教授
1998年 理化学研究所 脳科学総合研究センター チームリーダー
2018年 理化学研究所 脳神経科学研究センター チームリーダー
2020年 理化学研究所 脳神経科学研究センター 副センター長
2025年 理化学研究所 脳神経科学研究センター チームディレクター
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